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正法流布の27年間の疑問

それから、こういうこともありました。
ある方が正月に年賀状をくれました。
「年を重ねるごとに心の風景が変わって参りました。私もぼちぼち旅支度をはじめております。次の世で先生に会えることを最大の愉しみに、残り少ない人生を楽しんでおります。どうか先生、お身体ご自愛下さいませ」というお葉書でした。

この人も、僕のために随分と尽くして下さった方なのですけど、この人の心にある意味の傷をつけてるのかな?そういうことから正法してからの27年間、人さまに何か心傷つけてないかな、それをずっと反省を続けていたんです。そういう中で最終的な問題がいろいろと起こってきた。その都度、神さまに適材適所の指導をやっていただきました。

ところがそれと同時に私が一番疑問に思ってきたこと。それは私がそんなおこがましいことは言えないけれど、もし高橋信次先生の後継者としたら、世界を動かすような人物であるとしたら、こんな人数で本当にいいのか?ということだった。

 信次先生はいつもおっしゃった。
疑問を持ちなさい。Why and Why?その疑問を持ったら徹底的に追求せよ。
だからそういうこともずっと頭の中にあった。正月からこっち毎晩2時から4時まで禅定をやってたんです。
「これでいいのですか?これでいいのですか?」といっても答が返ってこない。返って来ないから、もうアカンのかと思って、昼の連続ドラマをかけていた。

そこでは臨済宗の坊さんと、ハーフで小学校の先生のドラマをやってました。そのハーフの先生、木里子さんというのです。お母さんは亡くなって医者をしているお父さんとおばあさんに大きくしてもらった。
ところがふとしたことで臨済宗の陽春という修行僧に興味をもった。
今の人と違うのは非常に礼儀正しい。末寺に派遣されている坊さんで、そこの老師は肺がんで病院を出たり入ったりしている。
木里子さんのお父さんの病院です。
何でもないことから木里子さんは陽春さんを好きになっていく。

木里子さんにはひとつ悩みがあった。
生徒の一人に、母親が夫婦別れをし水商売に入っている。その子供がグレだしたのです。そのグレた子供が陽春さんに会って二人で掃除していた時、汚いものがあったのです。
「汚い!」と子供が言うと「何が汚いのか、これはみんな肥料になる。そして植物が育って、それをまた人間が食べて、それはリサイクルになっている」というと、子供はすごく感動して作文を書いた。するとそれが入選した。

ひょっとするとその陽春さんに、その子供のことを相談したらいいのではないか、と木里子さんはお訪ねしたのです。
陽春さんが「私のような者でもそんなことが出来るでしょうか、一度ご老師にお尋ねしてみます」
老師に「陽春でございます。入らせていただいていいですか?」きちんと礼儀正しく入ってくる。「実はこうこうです」というと、老師が「うん、お地蔵さんになりなさい」といわれた。それを木里子さんに言うと、何のことか解からない。「お地蔵さんって何ですか?」と問われた。

この世とあの世の境に三途の川があり、地獄と極楽の境に賽の河原がある。
その河原の地獄の方に、幼くして世を去った子供たちが、両親に命がけで自分を産んでもらいながら、また命がけで育ててもらいながら、何の恩返しもせずに夭折した。
しかも自分が去ることによって、両親に死ぬような、淋しさや空しさや悲しさを与えた。何とかしてその両親を供養したい、そう思って河原の石を積んで供養していると鬼が来て、その石をけちらし、その子供を食おうとする。
その時に子供たちはお地蔵さんの背中に隠れて難をのがれる。鬼が去っていくと、また再びお地蔵さんの後ろから出てきて、ご両親の供養をする。

木里子さんがいう。
「それほどの法力のあるお地蔵さんなら、その鬼を退治できるはずなのに、どうしてしないのですか?」
「いや、その子供たちがもう一度勇気を出してご供養をするように、又それほどもご供養は命がけだということのためにも、お地蔵さんは鬼を退治しないでおいてある」
それを聞いたときに、ドキンとしたのです。

その晩早速、禅定をしたのです。
そして、「今日の昼、見せてもらったことが真の姿ですか?」
はじめて神がおっしゃった。
「そうじや、お前は地蔵じゃ。地蔵はなぁ、三界に家もっとるか?
お前どんな家に住んでおる。借家じゃろが。しかも町なかの地蔵さんは、信者さんが作ってくれた小さい小さい、自分一人がかろうじて入れるところに鎮座して、一人一人としっくり噛み合って、救いをしておられるのと違うのか?それがお前じゃ。お前はどの信者さんにも命がけでやってきていないか?深く深く、付き合っていないか?」とおっしゃった。

それで僕、安心したんです。その通りやから。
信者さんと生涯付き合っていくというのが多々あります。どれをとっても浅いものではないんです。

その時また神が言われた。「人間の顔がすべて違うように、性格も人生も環境も皆違っている。その中で自分の心の業を修正する人たちに、大所高所から法を説いて、最大公約数で法を説いて、本当に人が助かるのか?救えるのか?その一人一人に合わした微妙な諭しとか、導きがあるのではないか?そうでないと本当に人は救えるものではない」
といわれた。

一般の宗教はそうなんです。最大公約数で法を説いて何万人何数万人の信者もって、そして愛ですよ、人を思いやりなさいと教える。しかしそれで人が本当に救えるのか?まったくその通りだった。だから安心したんです。
「そうか・・俺、地蔵さんか・・それでええ」そう思いました。

 

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