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さまざまな名で世に出た仏

法蓮華経 如来寿量品第十六の中で
(爾時仏告諸菩薩) そのとき仏が、諸菩薩に告げられる。・・名字不同(みょうじふどう)年紀大小(ねんきだいしょう) と経の中にあるが、それはどういう意味なのだろうか?

釈迦入滅時の最後の説法が、お経となった如来寿量品第十六に、仏法を説かれたお釈迦さまが、 (高橋信次先生の過去世)最後に弟子たちにこう言われた。

諸々の善人たちよ、善男善女よ
一切のこの世に存在する、天に住する心をもつ人、地獄に心をもつ人、また盲目の人生を歩む人々に対して言われた。
「私は出家して、カピラの城よりほど遠からぬ道場に座し、瞑想して仏の悟りを得たと人々に教えたが、これは実に現世利益といった小法しか求めない、徳薄く業深き人々への励ましのため、また彼らの歓喜心を掻き立てて精進に導くための方便のゆえに説いたに過ぎなくて、実の私は久遠元初からの仏である」だから私は実に仏となって以来、これより前にさらに無限に近い年月を生きている。

「我は常にここにあってこの世の人々に説法し、教え導くばかりではない。あの世この世、過去から現在にいたる全ての世の段界においても、私は人々を道の理に導いてきたのである」

「諸々の善をなそうとする者、また一般の人々が私のところへ来たならば、私は仏の目をもって、それらの人々の信というものが、どれだけ固いか軟らかいかという信を感じて、またどれだけの努力をしょうとするかという機根(きこん)の利鈍(りどん)を見抜いて、その時と処に従い、当意即妙に自説をたてて対機説法(たいきせっぽう)をしたのだ」

「しかも、よく聞け」
「われは一仏でありながら、様々な名を使って世に出た。天台智顗として出た。ゴーダマ・シッダルタとして出た。様々な名を使って(名字不同、年紀大小)、その時その時に寿命を決めて世に出た。また、その時その時に私は死する。と書いたけれど、私の魂は永遠なのだ」
このように仏は、様々な名を使って世に出る。

瀬川宗一先生が、クラーリョとして、また、アブラハムとして、イエスとして、ファイシン・ファイ・シンフォーとして、ダン・バロインとしてノストラダムスとして世に出た。様々の名前でありながら、私は一仏である。

その時代その時代に生まれ、この世的な寿命や法力とその及ぶ時間も様々にしてきた。色々の方便を用いて、一人ひとりのために細かい細かい心配りの微妙な法を説いて、衆生に歓喜の心を呼び起こそうとしたのだ。そして言葉をもって表現し諭し導き、その時代その時代に私は死んだ。

末法の世を正すために、仏は世に現れる。
人倫が地に落ちる末法の世の人々を救い、苦難から救わんがために苦悩に満ちた世に降りる。
その時、世に道理はなく不正がはびこり、欲に飽くことがなく性が紊乱(びんらん)し、心身ともに堕落して世が闇におおわれる時刻。
聖者は天の火をかざして来たる。
闇を照らして正邪善悪を正し、彼らを教え導いて徳を得させ善を育み、身過ぎ世過ぎの知恵ではなく、真理を模索し正邪善悪を見抜き見通す智慧を育まんとする。

名字不同、年紀大小

人間は何度も生まれ替わり、一魂の連続体である。

一人の人間がある時代その国に転生し、そこでの名前を使って生き、その寿命もさまざまで死ぬ。これはすべての人間がそうであり、日本人だから次も日本人に生まれるとは限らない。それぞれの魂の修行に相応しい環境に生まれる。しかも生まれたら過去世の続きを勉強します。すべての記憶を潜在させて、この世で魂の修行をするのです。学校で苦手な教科があり落第すれば、何度でも習得するまで追試験をうけて及第点をとるように。

そして今、自分がパレスチナ人でイスラエル人を憎むとします。今度イスラエル人に生まれたらパレスチナ人を憎むのですか。その時はどうしますか?これが転生輪廻の厳しさなのです。それが次は戦っていた敵国に生まれるかもわからない。
いま自分が人種差別をしていて、今度は人種差別される側に生まれたらどうしますか?
こういう深い精神世界のもの、正法だから言えるのです。
自ら蒔いた種は自らが刈り取るのです。それは宇宙の法則です。良い種も悪い種もすべて自らに還ってくるのです。

自転、公転は宇宙の法則です。あなた方も自転しながら公転しているのです。自転は一日一日のことです。公転は生死のことです。そして、あちらの国こちらの国に生まれ替わってふさわしい修行をします。

正法では証拠があります。たとえば同じ夫婦の子供が、同じように生んで育てているのに三人が三人とも性格が違うのは何故なのか?肉体は両親から受け継ぎますが、魂は天から来たものです。そしてそれぞれに過去世の人生があったから兄弟でも性格が違って生まれてくるのです。
ただ自らの修行にふさわしい環境に生まれ、同類合い寄るのたとえのように、類は類をもって集まり運命をつくり魂の修行をします。

過去世を知ったら勉強になりませんから、過去世の記憶は十分の九の潜在意識の中に入ってしまいます。そしてわずかな十分の一の表面意識だけで盲目の人生を送るようになっているのです。
過去世の業が残っているので、その時と縁に触れて人間は自らの業のままを表現します。今日現在は自分の思いや考えと行動の結果なのです。
この世は原因と結果の連続帯ですから、その結果を見て自らを振り返り勉強させてもらうのです。自分の足跡を振り返り反省し、それを修正しにこの世に来ているのです。そして何回も生まれ替わって魂の進化(神化)を計る。子供から親に(親化)なっていくのです。

正法の勉強で反省を繰り返していくうちに、潜在意識である水面下の隠れている10分の9が段々と解かってきます。その10分の9の潜在意識に到達するのが正法の行なのです。そのために今少ししか表れていない表面意識である十分の一に対して、反省を繰りかえすのです。その延長線上に過去世にやり残した業が隠れています。その業が自分の人生を左右し、苦しみ悲しみとなって気づかせようとしています。これが重大なことです。それが自分の本当の因であり、それを見つけだすのが正法の深さです。


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