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アブラハムとして転生

今から約5000年前に中東の地で、テレピンという大きな木のもとで、ウル族の長として生活をした。
神を信じ、収穫の一割を神に捧げ感謝して生活をする。神というものに対しての人間の姿勢、信仰を示した。

アブラハムは神の命によって名前を換えさせられた、前の名前はアブラムだった。
しかし神がアブラハムに臨在し、アブラハムと名を換えよといわれた。言われたとは祝福されたということだ。
だからアブラとは父を指し、ハムとは交信を意味する。つまり、”天の父と通信できる者” として認められたということだ。
アブラハムも妻のサラも、本当に年老いてから ”主” の奇跡の力によってイサクを授かった。しかし、"主”は、自分たちの命よりも大切なイサクを 「モリヤの地につれて行き、燔祭のいけにえにせよ」 と命じられた。

アブラハムはその日、朝早く起きてロバに鞍をおき、二人の若者とイサクを連れ神が示された所にいった。
三日目にアブラハムは目をあげて、はるかにその場所をみた。そこでアブラハムは若者たちにいった。「あなた方はロバと一緒にここにいなさい。私とイサクは向うへいって礼拝し、そのあとあなた方のところに帰ってきます」
アブラハムは燔祭の焚き木をとってその子イサクに背負わせ、手に火と刃物とをとって二人一緒に行った。

やがてイサクは父アブラハムにいった。
「父よ」。 ・・彼は答えた。 「子よ・・私はここにいる」。 イサクはいった。
「火と焚き木とはありますが、燔祭の子羊はどこにありますか」。 アブラハムは 「子よ・・・みずからが燔祭の子羊を備えてくださるであろう」。 こうして二人は一緒に行った。
彼らが神に示された場所に来たとき、アブラハムはそこに祭壇を築き焚き木をならべ、その子イサクを縛って祭壇の焚き木の上にのせた。

そして、アブラハムは手をイサクに差し伸べ、刃物を手にとって天を仰いでいった。
「主よ、このわが命よりも大切なわが子は、あなたからいただきました。そのあなたからいただいたものを、今あなたにお返しいたします・・だから・・だから・・だから主よ・・どうか・・どうかこの子を痛ませないで、苦しませないで・・この子をお引取り下さい・主よ、どうかこの願いだけはお聞き届けください」。
その声には張り裂けんばかりの願いがこめられていた。
すると、主の御使いが天から彼を呼んで言った。
「アブラハムよ、アブラハムよ」。 彼は答えた。「はい、ここにおります」。 御使いがいった。 「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたの一人子さえ、私のために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをいま知った」。
この時アブラハムが目を上げてみると、後ろに角を藪にかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムはその雄羊を捕らえ、それをその子の代わりに燔祭の生け贄として捧げた。

それでアブラハムはその所の名を 「アドナイ・エレ」 と呼んだ。
これにより、人びとは今日もなお 「主の山に備えあり」 という。
主の御使いはふたたび天からアブラハムを呼んだ。
「私は自分をさして誓う、あなたがこの事をし、あなたの一人子をも惜しまなかったので、私は大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫を増やして天の星のように、浜辺の砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地の諸々の国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたが私の言葉に従ったからである」。

そしてアブラハムはイサクや若者を連れて帰り、一部始終をサラに話した。すると語りだしていった。
「私も同じ思いで主に祈りました。しかし、それまでの私の心は千々に乱れ、時には主からわが子をいただいた事に後悔し、時には主に対して、恨みや憎しみさえ抱くほどでした。しかし、その私も最後の最後はあなたと同じ心境に達し、主に祈って、祈って、祈り続けました」。

神への信仰心を証ししました。

パララオの指導霊として

釈迦(ゴーダマ・シッタルタ)が2600年前にインドで、一子ラフラが生まれた時、ついに出家の決心をして城を出た。修行をするゴーダマが必ず尋ねてくるであろうということで、バッガンバーの仙人の指導霊を私は仰せつかっていた。
名前はパララオ (偉大な、ラオスから来た人という意味)
私はそのパララオ仙人の指導霊として、インスピレーションを与えていきました。
その時、ゴーダマが初めて道を求めて来られた。

「ゴーダマよ。天に九つの星があるように、地にも九つの心の位があることを知っているか?」

過ちを悔い改めもせず、同じ過ちを際限もなく繰り返す人、これ愚者という。

ひと度犯した過ちを、人の知恵を使って過ちを犯すまいとしながら、人の弱さのゆえに、同じ過ちを再び繰り返す者、これただの人という。

神から与えられた偉大な知恵によって、過ちを繰り返すことを反省し、くい止める者、これ智者という。

そういう過ちを子供も犯すであろう、兄弟姉妹も犯すであろう、友人知己も犯すであろう、また縁ある人々も犯すであろう、だから教えてやれ、その人を賢者という。

そういうことをやって行くうちに、己の思いや計らいを超えた何かがある、神仏の存在を次第に知っていく者、これ信者という。

しかしてゴーダマよ、汝のように行をもって神仏に近づかんとする者、これ行者という。

そのような行の道を通し、本当の神仏の存在を自覚する者、これ覚者という。

そして自分の三次元的知恵や知識ではなく、神仏の力を借りて尚かつ神仏の存在を人に認識せしめ、人を導かんとする者、これ尊者という。

そういう思いをもちながら、凡聖同互道、(この世は愚かしい者、賢い者、様々な者がこのひとつの次元帯に集まり、同じように家を持ち同じように生活をし、そして一所に集まり話をする)そうしながら人々を導く。
しかしながら、天にあっては神仏の位に座する者、これ聖者という。

ゴーダマの出家の門出を祝って、パララオ仙人を通してこのような指導をされた。

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