私のホームページには過激な言葉がよく出ますが、私は誰よりも平和主義者であり、マハトマ・ガンジーを崇拝しています。

 何故なれば、私は仏法者[ブディスト・ミニスター]であり、過激なものより深淵なものに興味を持ち、見ることより観ることに、知ることより味わうことの方に価値を見出しているからです。

 自我を捨てることによって慾や思惑を捨て、物事を公平無私に客観的にとらえることができる仏法者特有の資質によって、どんなことでも正しく、広く、深くとらえて考える能力を養う。これが仏法者の精進の目的であり、そのためには過激な肉体行を避けて、反省内観と、禅定、瞑想に耽ることによって深淵な智慧に到達しょうと努力します。

 一念力の行者の肉体行は、集中力を高め一念の力をダムの水を満水するまで溜めて、一挙に放水することによって、岩をも動かそうとするものであり、それとは違って、沈思黙考して宇宙の真実を模索したり、自分自身の疑問を解明したりと、自らの内に内在する叡智によって宇宙大自然の叡智を解明しようとし、遂には自らの内なる仏性に到達し、宇宙即我(うちゅうそくわれ)を大観して仏としての境涯に入ろうとするものである。

 そして、その境地から人間社会を観る、飾りたてる表に対しての裏側のお粗末さ汚さには目を覆いたくなる。

 私は若い頃モーターボートが好きで道頓堀川を走らせたが、美しく美装しネオンで飾りたてた店舗の川に面した裏側には、廃棄物や汚物を入れたドラム缶が幾つも並べられて異臭を放ち、カラスがほじくりネズミがそれを食べ、そのネズミを猫が食べて食の連鎖がここでもあり、衛生面も掃除も行き届かぬまま病原菌の巣窟となる。表とは対照的でアンバランスだ。

 同じように人間も表と裏の二面性を持ち、綺麗事に終始する心の裏側には性や欲望や煩悩といった自我我欲や自己保存欲にまみれた恥ずかしい面をも兼ね備えているということだ。

 だから反省や内観を怠っていきなり禅定や瞑想に入ると、自己の足りない面や愚かな面や業の深さを知らぬまま少し霊的になり、精神的に弱い者の幻覚や幻想の世界に入ると、俺は偉い私は神仏から選ばれた者と邪推して手に負えなくなる。

 人間が本来持つ霊的能力とは、知恵もつ人間も肉体的には弱き動物で、草食動物が肉食動物から身を守るためにする自衛のための能力であり、時にはその縁によってキツネやタヌキの霊が憑依する場合もあって、その能力に更に拍車をかけることがある。

 人がそんな類の人の言葉を信用しその言葉に従うと、盲目的に服従して自己の確立ができなくなるが、そのほとんどが日本的信仰の真の姿ではなかろうか。

 私たち純粋な仏教者は、滝行や断食行やその他インドでする肉体的荒行をせず、さりとて反省や内観で心の浄化も果たさずに、ただ心を鎮め鎮めて霊的になろうともしない。

 それよりも反省で、むしろ人間の心の裏側を見詰め見詰めて心の浄化を果たそうとし、またそれを効果あらしめるために善なる自分を第三者に立て、裏の自分を裁き「それでよいのか?それでよいのか?」と自問自答する。
 喜怒哀楽は、眼、耳、鼻、舌、身といった肉体の五官の影響を受けて揺れ動く現象をいい、内観を深めると心の真中に、無我、無念、無想の三昧からなる、明鏡止水のように鎮まる心の原点があり、その仏心こそ肉を持たぬ自分の真の姿であることも、自らの内に内在する深淵なる智慧によって知る。

 


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