私の行じる反省、内観は、仏教の一派である浄土真宗の創始者、親鸞上人の[身調べ]に端を発する。

 古くは今から千数百年前。中国の西安に発した浄土念仏の教え[善人はおろか悪人でも、南無阿弥陀仏を念ずれば誰でも救われる]と、庶民の間に広めようとした、当時の中国の新興宗教の系譜を踏襲する日本の浄土宗に学んだ親鸞が、疑問追求の末に[本当に阿弥陀如来に救ってもらえる自分であるか?]を調べるために、断食と不眠不休を貫いて自分自身に問いかける、身調べという内観法を創設した。

 私の人に教える内観はその法を継承し奈良郡山で内観寺を建立し、自分の生涯を賭けて日本全国に広められた吉本伊信先生の内観法によっている。

先ず部屋の隅に、囲むように立てられた衝立の中に入って座し、心を整えて、[先ず母に対して、してもらった事、心配をおかけした事、お世話になった事、ご恩になった事、ご迷惑をおかけした事、母を苦しめた事、悲しませた事、自分の存在で母の一生を犠牲にさせた事]などを、自分の立場ではなく母の立場に立って調べてみる。次に父についても同じことを反省し内観してみる。

 次は嘘と盗みについて人生を内観してみる。本音を隠して建前で人と接すればその言葉は嘘に塗れていないか?また魂胆や駆け引きで人の心を誘惑すれば、その人の心を盗んではいないか?このように考えていくならば人の一生は嘘と盗みに満ち満ちて、お粗末極まりない自分自身に驚きを隠し得ない。

 更に物心ついてから現在まで、人生の中で出会い付き合ってきた人々が、自分に対してして下さった親切や人情や真心を内観すれば、その数は驚くほどの人数で、しかもその人たちの親切や人情や真ごころは本物で、そこに何の思惑も駆け引きもないが、自分の人に対する親切には常に思惑があり、代償を求めている貧しさに気づくだろう。

 人によっては、こんなにはっきりと自分の悪や愚かさや罪深さを知ると、立ち上がれないほど傷つくといわれるが、それこそが、貴方のわがままで、その事に気づかずに逆に延々と親や兄弟姉妹や、配偶者や親友や人々の心を傷つける方がよいのだろうか?

 その人たちが生きている間に、その事に気づかせていただければこそ、相手に自分の不明を詫び、行いを改めて恩返しができるのではあるまいか。

 人によっては父母に縁が薄くて反省内観がしにくいといわれる方には、叔父叔母や、その他の育ての親が必ずある。何故ならばそのような人の世話がなくて、何もできない赤子のあなたが育つはずがないからだ。

 このような反省内観をして、自分にとって何のメリットがあるのか?といわれる方も中にはあるが、あなた達の親は正に神のように、子供に対しては何の代償も求めず、ひたすらあなたの事を思い、あなたの幸せを祈っている。その愛を平気で平等であるべき配偶者に求めて、相手の心が変わった。冷たくなった。と嘆く愚かを演じているが、配偶者は平等で、愛すればこそ愛され、尽くせばこそ尽くされるものであることを、反省内観を深めればこそ知るのだ。

 私は今、人に対してそうした反省内観を基本にした人間関係の指導をするが、仏法で一念三千といわれる広範な心の違いについて、いやというほど思い知らされる。

 ある女性は養女として育てられ、その後養子をむかえて二男一女をもうけた。

養母は世間の目を気にしながら養女を育てたため、どうしても育て方が甘く、躾けの面を弱く育てた。

 その関係か養女は養子娘として世間知らずの我がままが出て、それをそのまま養子である夫や子供に接すれば、子供はよしとしても子供の配偶者には重大な影響を与えるが、本人はそのことに全く気づいていない。

 私も養子として今の妻と結婚し、その間にできた一人娘を嫁がせたが、その娘が夫や嫁ぎ先の舅や姑や、周囲の夫の兄弟姉妹に気に入っていただくよう嫁の両親として、肩身を狭くしながら心を砕くことしきりだった。

しかし、養女である彼女には全くその斟酌がなく、嫁に行かせた娘ごと、その夫や子供たちにまで世話を焼き、「これだけよくしてやっているのに、夫が嫌がり寄り付こうとしない」と不足の連続で、娘を他家に嫁がせたのだという自覚が全くない。

 反省、内観は、心の支点や角度を変えれば方法は無数にある。例えば自分の妻が死亡した、お通夜の夜を想定すれば、弔問の人が一人去り、二人去りして、ついに妻と二人きりになったとする。すると貴方はきっと妻の顔にかけられた白布を取ってジッと妻の顔をのぞき込み、[妻は私と結婚したが、本当に幸せだっただろうか?本当に私は妻に誠心誠意をもって接して来ただろうか?]と、しみじみ思うと同時に、妻と自分との恋愛時代や、結婚式から新婚旅行、はじめて子が生まれて、二人で喜びあった思い出などが走馬灯のように頭をよぎり、涙が流れて来る。そして本当によい妻と一生を共にして来たのだと、感謝の気持ちでいっぱいになる。

 その感謝の気持ちが、妻が本当に死んでからと、生きている内にするのとはどう違う?妻の生きている内に感謝がでれば、本当に妻にその気持ちを伝えて、それなりのお返しもできようが、死んでしまってからでは一生悔いが残らないだろうか?それは反対に夫の場合も同じなのだ。

 今、自分がこの世を去るに際して、妻や子供たちに遺す遺言には何を書き記す。自分の一生によき妻や、かけ替えなき子供たちに恵まれて、私は幸せであったと、あなたならきっと熱い涙を流して書き記すだろう。 しかして、このような反省、内観を重ねれば、この世は地獄でなく極楽であったと心の底から知るだろう。

 だから浄土真宗の身調べこそ極楽への道なのだ。

 


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