私たち仏法者が反省内観を深め、心を悔い改め修めたとしても、それが身につき行いに表れるのは容易ではないが何故だろうか?

 私は若い頃から柔道に励んで有段者だが、その私が事業を興し、それなりの位置について身だしなみに社交ダンスを習おうとしてレッスンに通ったときだった。チケットを買い指導してくれる女性に渡してレッスンを受けたとき、その格好や足の運び方が柔道そっくりで、つい彼女の出した足を無意識に払って彼女を転倒させ傷つけてしまった。

 このように一度身につけてしまった柔道の癖は習性どおり出てしまうが、これと同じように一度身につけてしまった心や行いの習性は、業のままに悪いと思わず意識もせずに出てしまうものなのだ。

 だから、反省内観で自分の癖や習性や業に気づいても、それを言葉や行いに繰り返し意識して表して習い性にしないと、癖や習性や業が改まるものではない。

 しかし又こうも云える。昔、アメリカで強盗殺人を犯して逃走し、政府からウォンテッド[賞金つきの指名手配]の犯人が、ある日、牧師が衣服を池の辺にぬいで水浴する姿に接し、牧師の衣服を奪い牧師になりすまして逃走中、出会う人たちは彼を牧師としての尊敬をこめた接し方をし、時には懺悔して指導を求められ、見よう見真似で応じているうちに、次第に真理が解り本物になっていく物語を聞いたことがある。

 正にその通りで、反省内観を深めて気づいた癖や業を、例えそれが身につかなくとも直そうと努力していると、相手はそれを真実として受け止めてくれ、直さずにはいられなくなるものだ。だから反省内観で知り得た心の癖や習性や業を修正するには、照れずに勇気を出して悔い改めた言動で相手に接することだ。例えそれが板についていなくとも、相手があなたの言動を信じて接してくれ修正することができるが、照れて言動に表さなければ何の結果も表れず、心の癖や業を改めることは不可能だ。

 


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