旧約聖書にこう記されている。その昔神がアダムを創造されたとき、一人では淋しかろうとアダムの脇腹の骨をとって生涯の伴侶として女性を創られ、女と名付けられた。とあるが何故だろうか?

その確かな証拠は学園にあり。男子ばかり女子ばかりの学園は殺伐としていて、そこには何のロマンも夢も希望もないが、男女共学の学園は華やかでロマンと夢に満ちていて、時として勉学も疎かになりがちだ。

 男性にとって女性は必要であり、女性にとって男性は必要不可欠で、そこからロマンが生まれ芸術が生まれる。小説も音楽も夢も希望も生まれて、自己犠牲からなる真実の愛が誕生し、ピンクの花が咲き乱れて地球を美しく飾り、正に形なき男と女が創りだす家庭や家族構成のイントネーションの世界が開かれる。

 たとえば辺境の地を訪れても一人は淋しいが、二人ならどこもがエデンの園と化して、心が安らぎロマンに満ちる。

 しかし、男性が女性を性の対象として観る限り、いつか飽きて悲劇となるが、初めての出会いでは、この女性と一緒にいられることが限りなく幸せでそばに居たいという思いで切なくなる。
 男性は女性の肉体ばかりに興味を示さず精神愛に終始すれば、例え相手が人妻でも永遠の愛を誓い合うことも可能となり、その思いが自らの精神性をも高めて豊かな情操と真実の愛とは何なのかを知るだろう。

 相手の幸せのために自己を犠牲にする無償の愛を人が知ったとき、その人は相手との今生の出会いがいかに尊く素晴らしかったかを再認識し、その愛は生死の次元を超えて永遠となり、死後の再会を果たせば二つの魂が融和して一つとなり、永遠に結合して分離することは絶対にない。

なぜなら、その二つの魂は元は一つで、更なる進化のために分離したに過ぎず、その魂は今生で互いに呼びあい、見失うまい離れまいとして必死だからだ。

 かつて、歌手の尾崎豊がセックスこそが愛であるというように、セックスを謳歌して若い男女を迷わせたが、彼はその罪の重さのゆえに動物のように行き倒れて死んだ。セックスは愛ではなく、ただ自己の性欲を動物のように満たしているに過ぎず、あくまでも遊びで、飽けば互いに相手を代えて再び性を遊ぶだけ。

 正に性を倒錯した若い男女は、その繰り返しの中で性病をうつされ、うつされたからうつし返すと平気で性交を繰り返す。そんな男女のどこが恋で愛なのか? 

 そればかりか自分が親から享けた肉体を切り売りしている内に、最後は相手からエイズをうつされ、免疫不全で抗生物質も薬もきかず寿命を縮めても当然と受け止めよ。

 それでは次いでの疑問。人類は絶滅し、世の終わりは来るのか?

 ない。

 なぜないのか答えよう。

 宗教の世界では、この世に聖者が現れて根幹の真理を解くが、そのご徒弟たちが聖者の死後、その根幹を枝葉に分かれて分派を繰り返して根幹を見失う。私が信奉する科学は、逆に枝葉末端の真実から根幹に向かって追求を繰り返し、その総合力から爆発的速度で真実に迫り、ついには一つの真理に到達する。

 それは何か?

 人間には、生命の加工はできても生命そのものを創造する能力はなく、蝿一匹さえ創りだすことができない事実にぶつかったとき、私達人間も神なる創造者の被造物に過ぎず、人類の上に親なる創造主の存在を知って、人は再び謙虚さを取り戻し創造主の前に頭を垂れ、親なる創造主の意に添った生活を取り戻すだろう。

 


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