ホーム »目次 »我聞2-1 心こそ汝自身なり

心こそ汝自身なり  瀬川 宗一

よく聞きなさい。
あなた方は肉の目で見、耳で聞き、手で触れて物を認識し思考する。しかし、それはあくまでも肉と肉の性につながる個的意識であり、個的意識に依存するかぎり、あなたは孤独で真の平安を得ることはない。

しかしながら、個的意識の奥にあって神とよばれる宇宙の因とつながり、因から子と呼ばれる潜在意識(連帯想念)に目覚めれば、最早あなたは永遠である。

世の初めに因と呼ばれる思いがあり、思いは凝集して意志と化し、意志は形なきものから形を産み出し、言という生命の息を吹き込んで生きたものとし、地上を自己表現の場として彼らに与えた。

しかし形なき生命は形に入ったときから、感覚器官につながる個的想念の働きを強め、ために宇宙とつながる潜在意識(連帯想念)は心の奥に追いやられ、深い眠りについた。これがエデンの園からの追放である。

かくて宇宙の孤児となったあなたは、光を見失って世をさ迷う。そして孤児であるあなたは、真の自分自身の素性を知りたいとする内なる声に必死で耳を傾けようとする。
「汝自身を知れ」 これは宇宙の孤児となってさ迷う人類に対して、過去から現在に至って叫びつづけてきた宇宙の声であり、目覚めない限り未来に向かって叫び続けるであろう親の心情である。

それでは深い眠りについた潜在意識(連帯想念)の覚醒を促すものは何か?
それは反省であり、禅定であり、瞑想である。
「地でつなぐことは、天ともつながれ、地で解くことは、天でも解かれるであろう」と云われた人にして出来る業(わざ)である。(地で自分のカルマを解くと、天で定められた運命から解き放たれる)

個的想念に閉じこもった魂を、連帯意識に目覚めさせるものは反省であり、反省を深めると、自身を取りまく愛や多くの生命の心づくしを知って、共に生きる喜びや幸せを噛みしめて大いなる連帯感に目覚めよう。それが悔い改めである。

また、そうした心境で禅定に耽るとき、宇宙の因と呼ばれる親と一体化を果たし、光と安らぎの中に身をおくことができる。

瞑想の中では、個的想念を離れた連帯想念の奥なる因の領域に身をおいて、物事の原点を見つめ、愛なる真理と法則からなる行為によって創り出された世の真実を知り、安らぎが個的意識を解いて連帯意識と調和させ、地にいて人と和し天とも繋がる人間を人と呼ばれる真の姿に立ち返らせる。

真という石

主が、真(まこと)と書いた石を、鏡のように凪いだ池に落す。

石は水面に落ちて波紋を描く。

初めの波紋は愛といい、波紋は次第に拡がり、慈悲、善意、好意、人情、そして岸に至って義理と打ち寄せ、義理と返る。

このように、人としてギリギリの行いは義理であり、その道を踏み外して人はない。

しかし今、人は義理人情といった最低の人の道さえ見失い、世の闇を自ら作って混迷の坩堝(るつぼ)の中に伸吟(しんぎん)せん。

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