ホーム »目次 »我聞5-1 私は何のためにこの世に来たか

私は何のためにこの世に来たか

確かに私は、高橋信次先生に会って真理に目覚め、
久しく人を真理に導き、余命はないが、
岸に寄せ来る波のように、寄せては引き、寄せては返して、
人よ、我に来たり我を去って、あなたはどこへ行くのか?

我は瞑想して、この疑問を神に投げかけ神に響け届けと問うが、
空しく宇宙に木霊(こだま)し、やがて消え、
わが心に響かず届かず空しさに迷う。
ところがそれがあって、二時に禅定する。
はじめて佛の声あって、我に言わん。

汝を知りたくば、路傍の地蔵を見よ。
地蔵は路傍に孤高と立って、庶民のわだつみの声を聴く。
常に一対一の深き縁しの人助け、我が身命を賭けて救いに専念する。
汝は仏の中の仏なり。

信者の金を集めて建てた、目を奪う巨大な神殿や大伽藍、
その奥殿に立派な姿で納まって、高所から最大公約数で法を説き、
「神は愛なり、人を愛しなさい、人を救いなさい」と、最大公約数で人が救えるか?

人は自らの一念三千の業のままに、皆違う人生を通っている。
あなた方の顔が違うように、皆違う。
それほど微妙な人生を運命を送っている。
その業のままに罪を犯して生きている、衆生の心が救えるか?
迷える道を指し示し、人を彼岸に導きて、仏の務め果たせるや、その人たちは。

ただ与えることに、導くことに法悦し、
常に我が命と引き換えに、庶民の命救えと神に懇願し、
庶民の苦しみ悲しみに耐えきれず、庶民の抜苦と平和を願ってやまず、

低きにいて神を崇めその祈る姿こそ、親がわが子に尽くし仕える姿なりと、
子に住む家を与えて我は家を持たず、子に財を与えて我は貧しく、
民の安きは我が安きと、路傍に起つ地蔵こそ、
不動の心もて民につかえ見守ることこそ、
わが地蔵の運命として、命に服す。

地蔵の行とは

地蔵

この世の嘆き悲しむ人には、母になってあげなさい。
迷い惑う人には、お父さんになってあげなさい。
一人で寂しい者には、友になってあげなさい。
寒さに震える者には、温かさとなってあげなさい。
力なく生きる者には、励ましの希望の光となってあげなさい。
闇を歩く者には、光となってあげなさい。

病人には医者がいり、地獄だから仏がいるのじゃ。
その仏は、それを全部習得するために波乱万丈の人生を生きる。
しかも、その運命に打ち勝って、すべてのものを習得する。
そして、その豊かな体験が、救いの智慧として活かされていく

それが地蔵じゃ、地蔵の仏としての光と導きの力となるのじゃ。

あなた方はこの世で、私という地蔵に出会っているのです。

 

路傍の地蔵        瀬川 宗一

我は幾百年を経て 路傍に孤高とたち
我は諸民のわだつみの声を聴く
しかも超然と不動の心もて それを聴く
地に如来を顕示して 無心にして有心
内に真如の月を秘めて仏を現ず

時として枯稿の老婆 我を訪れ
人に接するが如く我に親しみ
先立ちし夫や子の冥福を我に祈り
自らの往生の安けきことを願い合掌す

時として道を求める者 我が前に合掌し
しばらく瞑想し 時に幾日 幾十日を座し
しかも悄然と立ち去る者 覚と心眼を開く者

覚として心眼を開きたる者は
如来そこに在(おわ)しますかと涙して
我が石体を撫でていとおしまん
我は幾百年を経て路傍にたつ地蔵なり

おんかかび さむまえい そはか

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