女人高野(にょにんこうや)
僧が修行する山門に女人禁制の立て札を見る
何故だろうか 何故に女人禁制なのだろうか
少なくとも女人を交える事によって 禁断の色欲を起こし
男子の修行の妨げとなるが この意味の持つ深さを知る者は少ない
それは男子と女子の修行の分別と 在りように天地の隔たりがあり
修行の在り方も入り方も別方向で 同じ方向に男女の彼岸は存在しない
男子は女性や家族の保護者として 人生の学習から卓越した識見や知識を持ち
それに自らの知恵を絡(から)ませて 家族の責任者としての決断と実行を迫られる
故に一を知って十を知り 個に徹するが故に全容を知る知識や知恵の深奥(しんおう)は
深い
つまり男は全知の部分で真理を模索し その深奥を探って如来(にょらい)の道を歩む
しかし女は本能をもって愛する者を知り 肌を交えて愛の感情を深め肉を分かって子をもうけ 仕え尽くす事に喜びや幸せの親理(しんり)を高める
だがこの道は女子の業の深さの故に 道を外さば愛憎の世界で身を焦がし我が子可愛さの故に盲目となって 鬼子母神(きしぼじん)の外道(げどう)に堕ちて地獄に呻吟(しんぎん)す
しかしその愛の深さの故に生命(いのち)をかけ 滅びを喜ぶ道をえらぶ女人の哀れはやがて仏の仏果を得て 永遠ならざる我を顧みて永遠なる愛の在り様を知り我が身をもって御仏に仕え 我が愛する者への祈りを読経に託して祈り祈り祈り 我が身の犠牲をも厭(いと)わぬ思いの祈りを読経に乗せ託して全能を傾け一心不乱に祈る時 我が身は次第に慈愛の黄金に包まれて輝きを増しその心は天に招かれて天に昇り その想いのままに慈母観世音菩薩に合一せん
そして男は自分の為に 女は愛する者の幸せの為に精進の限りを尽くし女人高野(にょにんこうや)の祈りの中に 愛は女の業の渦の中に浄化と深化を繰り返す
合掌
無神論者に神はいませず
希神論者は神の蜃気楼を夢見
有神論者には神は現存する
合掌
大和魂
武士道とは死ぬ事と見つけたり
人間本来無一物を観ずれば 欲 煩悩から解脱し
我が心中に祖先の五輪の塔を安置し 仏を抱き合掌して
主従 親子に忠義と孝行の義をたて 正義に殉じて
朋輩 師弟には礼節を尽くし 生命より我が名を尊び
我が身は質素を旨として 一切の無駄を省き
清貧に身を任せ 心の健全を保って堂々悠々と
天地の狭間を誇らしく生き 散り行く桜の如く潔く死ね
合掌
吾探しの旅
禅に精進する者に吾は問う
禅を行ずるは何の為に
答えて云う 禅とは自分探しの行なり
ヨーロッパの聖地を巡礼する者あり
その人に問う 何の為の巡礼か
彼は云う もう一人の自分を探す為
四国八十八箇所を巡礼する者に問う
何の為に巡礼する
巡礼は吾と吾との対話に始まり
対話に終わる 吾探しの旅なり
その吾は肉を持ち彼我損得に揺れて
欲に身を売り煩悩に塗れ
苦しみ悲しみに惑い 寂しさに浸って
この世の地獄を歩む吾か
すると仏の声あって吾に曰く
肉を脱げ 奢(おご)るな 飾るな 計るな
肉に寄らざる霊なる吾に目覚めよ
その霊なる吾こそ神の子仏の子
肉の性脱げば煩悩も消滅し
心は霊なる吾 魂の真実なる吾
その吾との調和を果たし仏となる
その縁を観るこそ禅であり内観ぞ
平成14年4月7日