心の原点と同じ状態を、禅によって創り出すことができるばかりか、更にそれをこえて人間にはできないとされる冬眠の状態にまで、もっていくことができるのだ。
人が深禅定に入れば肺呼吸も脈拍も、辛うじて生命を維持できる程度に落ちる。よくヨガの行者が小さな箱に入れられて、地中深く埋められても長期間生き続ける道理がここにあり、肺呼吸が極端に少ないので、それほども空気が要らないからだ。
そして、その行者が冬眠から覚醒するときに、新陳代謝が活発となって肉体が若返る。
だからこそ人間の肉体は、このような禅における、無我、無念、無想の三昧に入ることによって[五臓の神君安寧なり]つまり肉体が意識の悪影響を受けないので、肉体は自然に順応して健康であるということだ。
[五臓の神君安寧なるがゆえに、天地の神と同根なり]肉体が天地自然の理に叶って健康を保つことは、天地自然と一つに調和されたことである。
[天地の神と同根なるがゆえに、万物の霊と同体なり]とは、天地自然と一つに結ばれ調和されると、天地自然を根として派生した生きとし生けるものと、原点である命の次元を一つにする。
[万物の霊と同体なるがゆえに、為す所の願いとして成就せずと言うこと無し]とは、その思いや考えは自然の理に叶い、また自然から派生した生きとし生けるものたちとも、愛や慈悲の名において調和するがゆえに、天と地の理に叶って、なそうとする願いの全てが成就するだろう。と述べられているのだ。この思いや考えこそが西洋思想にない、東洋独特の精神文明の要とするところなのだ。