このような反省、内観を深め深めて心の浄化を果たすと共に、次いでは心を鎮めて、深い仏的境地を得るために、無我、無念、無想の禅定に耽る。

 ここで私の体験から得たものは、心のリラックスは、肉体のリラックスを必要とするということ。つまり今までの禅のような半架坐や全架坐といった足の組み方をし、背筋を伸ばしてする禅では、どこかに無理な力が入って到底心のリラックスは計れない。

 だから専門の禅の僧侶に、半架坐、全架坐でする行は任せて、私たちはかつての釈迦如来がピパラ[菩提樹]の根元に、全身の力を抜いて座し、禅定や瞑想に耽ったように、形にこだわらず壁に全身の力を抜いて座すことにする。

 はじめにすることは精神の統一にある。精神を統一し集中すればするほど五官は鋭敏となり、十畳の間にたてた線香の香りが強く鼻をつき、小さなものが倒れても大音響となり、10キロ以上離れた大阪湾の船のエンジン音が聴こえ、クーラーの音が滝の轟音のように大きく聴こえる。それは統一の限界である。大日如来や不動明王が支配し、八大竜王が管理する蛇や竜神の世界であり、密教の行者が行ずる一念力の世界だ。

 しかし、私たちが求める世界はそれを高く超越した、創造神が支配管理する永遠の世界であり、宇宙神の心とわが心が合一する宇宙即我の世界なのだ。

 それでは仏法に何の興味も持たない方のために、物理的に一念力の世界を解明しよう。
 一本の細い鉄の棒を、伸ばして細く細くしていく。針よりも髪の毛よりも細くしていくと、少しの風や音の影響を受けても細かく振動するだろう。

 それが一念の予知力の根源であり、あのロスの大地震を予知したアメリカの一婦人の話が如実にその事実を示しているし、彼女はその後も火山噴火の予知もしており、彼女の予知力が本物であることを証明している。

 また人間の想念は、思ったことを具象化する不思議な能力を持ち、一世を風靡したユリゲラーのように、スプーンを曲げ、壊した時計を超能力で直し、草花や樹木と対話することは可能である。

 一昔前[GAIA SYMPHONY{ガイア・シンフォニー}]なる本が出てベストセラーとなった(映画もある)。その中にこう書かれている。

 「地球交響曲」の出演者のひとりである野沢重雄さんは、たった一粒のごく普通のトマトの種から、遺伝子操作も特殊な肥料も一切使わず13000個も実のなるトマトの巨木を育てた人である。私は野沢さんにお願いして、映画のために種植えを行い、13000個の実がなる巨木に成長するまでの過程を撮影した。

 このトマトの成長過程が、6人の出演者のオムニバスであるこの映画の縦軸となり、最後の薬草「誕生」では、幹の太さ10cm、葉の拡がり直径10mの巨木に成長したトマトが、一時に5000個以上の真っ赤な実をつけている姿を紹介することができた。

 野沢さんになぜこんな[奇跡]のような事ができたのかの詳しい説明は、映画でご覧いただきたいと思う。と締めくくられていた。……………………………「技術的には何の秘密もないし、難しいこともないんです。ある意味では誰にでもできます。結局一番大切なのは育てている人の心です。成長の初期段階でトマトに、いくらでも大きくなっていいんだ、という情報[十分な水と栄養があるのだという情報]を与えてやりさえすれば、後はトマトが自分で判断します。[ガイア・シンフォニー。地球交響曲より抜粋転載]

 この実話はその後、あたかもトマトと人間の心が通じ合っているように、反応しあっているかのような大転換を見せますが、これと同じ事実を私は知っている。

 私の友人でDさんご夫妻がおられ、その奥さんは野沢さんと同じような奇跡を連続で私に見せてくださった。野沢さんやDさんの奥さんに共通することは、共に素直で純粋で子供のように無邪気で純真そのものであるということ。そしてあのユリゲラーも例外ではない。ということだ。

 彼らや彼女たちは、純粋に大自然の森羅万象に心を通わせ、生きとし生けるものに心を通じ合わせて、大人たちの奇跡の驚きを当然と受け止めて、何の矛盾も不自然もなく、子供のように無邪気に、天真爛漫に生きているのだ。

 だから子供のような心こそ、心の原点であり、原点であればこそ、このように宇宙の森羅万象や、生きとし生ける全ての生命に通じ合い、共鳴し合って共存共栄できるのだ。

 だが留意しなければならないことは、心の暗い、また精神の不安定な人の霊視は、精神異常者の幻覚や幻聴と同次元にあり、見える、聴こえる、といっているうちに、いつの間にか精神異常者となるので注意しておく。

 しかし、私が求めるものはこれではなく、これら宇宙の森羅万象や、生きとし生けるものの創造主の心を求めて、それら宇宙の森羅万象や、生きとし生けるものの親である創造主の心と意志を模索して、宇宙に充満する慈悲と愛の実態が何なるかを知りたくて、悟りたくて、この私の生命の最後の三十年の歳月を賭けてきたのだ。

 言葉をかえれば、子供を知って親を知れば、人間の何たるかの本質に迫れることを知って、創造主の子供たちである人間に接し、また自らは反省と内観を繰り返して、心の浄化[情化]と深化[進化 親化]を計りながら、禅定によって無我、無念、無想の三昧に入って、心の観自在[一切の概念に縛られない心の自由]を得、そこから公案[彼我損得といった私案でなく、自然と対置した私たち人間が、人間であるために持つ、人はなぜ生きる。なぜ死ぬ。生きる意義とは何か。なぜ病む。なぜ老いる。親子とは何か。夫婦とは何か。人とは何か。といった共通の疑問]に、無駄とも取れる命を費やして来たが、それは何故だろう。その意味や意義が解りますか?

 政治家や官僚は自らを公僕と称しますが、心のそこから公僕と思う者は一人もなくて、支配意識やエリート意識が紛々とする。

 私はそんな社会には興味がないが、多くの石や砂や土に混じって稀少に出るダイヤに魅入るのは私だけだろうか?

 あのガンジーやマザーテレサの聖なる心に触れるとき、私は只ひざまずくだけでなく、この聖者たちは創造主の心に入り、親の心を身につけたればこそ、子に接するごとく人に接して、あの恵みに満ちた言葉と、慈しみが体全体に表れた行動がとれるのだろうと感激し、私もそれにあやかりたいとする思いが、私の心を駆り立てて止むことがないからだ。

 私の許に来る弟子志願の人々が「世のため、人ために役立ちたい。人を救いたい」と簡単にいってのけるが、本当に深く厚い思いをもって、止むに止まれずに来ているのだろうか?
 中には実社会で人に伍してやっていけないので、この世界で身を立てられないだろうか?
といった甘い甘い考えの人も多く、人助けの裏に、飯が食えないか、といった本音が丸見えで、本物の人に出会うのは本当に難しい。

 


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