科学と宗教は共に真理を求めているが、科学の現状は宗教を排斥するが、その理由は、科学が未だに真理の全容を把握していない、何よりの証拠であろう。

 人には二つのタイプがあり、孤独を愛するものと、多数の中にいるのを好むタイプだ。
この二つのタイプの人たちも科学の発達で便利になったが、孤独や空しさを埋めるのはお互いの存在であるのに、人が人に関心を示さず、そのために限りなき空しさや淋しさを感じることだろう。

 また自分自身の真実を知り、悟りの境地に至るためには、オッカムのカミソリ、つまり不用なものを削り取ると、真実なるものに突き当たるのに、知識や知恵を積み重ねて知ろうとするため、複雑多様となって紐解く糸口さへ見失う。

 それにしても、私は長生きし過ぎたのか。

 人倫が地に堕ちて人が獣と化し、力が世を覆い、弱者の犠牲で世代が成り立ち、人類の悪業のゆえに大地が滅び行く。

 その現実に立ち会って空しく天を仰ぎ、我が力の足りなさのゆえに、地獄に堕ち行く人を救えず我恥じる。

 ああ人が地獄に堕ちて行く。その道連れに人まで誘って堕ちて行く姿に接して哀れ。

 人よ、限りある生命の中に生きる人よ。人よ誇り高く生きよ。天地自然に恥なく生きよ。
悪を悪と認識すれば、善の何なるかを知る。

 そして、善の何たるかを知るとき、人は後悔なき人生の生きる生き方を知るだろう。

人は皆、自分の生き方を運命の上に示して死ぬが、その生き様、死に様を無駄にしてはならない。人は皆その生き様、死に様を参考にしてこそ、その人と自らが共に成仏する秘訣なのだ。

 心ある者はマザーテレサのように、強き者も弱き者も、貧しい者も富める者も、幸福なものも不幸な者も、男も女も、老若男女一切の人が天に昇るときは、「主よ、あなたの御子を御手にお返しいたします」と、神に執り成し祝福しようではないか。

盲目で目が見えず、耳が聞けず、口すら封じられたヘレンケラーが、「もし私の目が見えたら、私が生まれたこの自然や、私を愛してくれる両親や兄弟や友人知己の顔や姿を一目見たい。そして耳が聞こえるなら、そうした人々の声や自然の音を一度でよいから聴きたい。そして、もし口がきけたら、その人その人に礼を言い、素晴らしい生命を与えていただいた神に礼を言い賛美したい」と、顔を輝かせた彼女に私もあやかりたい。

 私は人より永く生き過ぎたようだが、全てが神の御心で、人生を振り返ると、苦しきこと、悲しきことは、時刻の流れに浄化されて、楽しさと懐かしさだけが残る。

 そしてその間、あなた達が非現実と思えることが私には現実で、そんなこと追求して何の利益がある。と思えることを私は生き甲斐としてきた。普通の人は生きることに汲々とする中で、そんなことも考える余裕のある人生を与えられたことに感謝する。

  合 掌  瀬 川 宗 一


 


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