現代の人たちは神を語るに惑い恐れている。何故なら世界を見る限り、利害得失や国境や、人種や民族の違いや過去の怨讐で、人類は今も対立と闘争を繰り返す。宗教の違いでは異教徒にさらに冷酷で情け容赦のないさまである。人と言うより地球人類全体を助け導くべき目的と使命を持つ宗教が何故に?と首を傾げざるを得ない。

 だから現在、神を求める人々が、サムシング・グレイトとか、精神世界とかと表現して神と称する言葉を極度に避けているが、我々は今こそこの危機を乗り越えるために、神の概念を正しく修正しなければならないと思う。

 古き中国の時代、書家と呼ばれ詩家と仰がれた王義之(おうぎし)の“曲水の宴”に、[広々とした果てしない景観に、目をやれば自然の道理は自から観えるはず。大いなる創造主の仕業を観るに、万物全て形は異なるもその理は一つ]と記されている。

 それは地球上の人類だけでなく、獣も鳥類も形こそ異なるが生きる理は一つであり、何の変わりもない。と記されているのだ。

 とすると、それら生きとし生けるものを創造された創造神、つまり祖神[祖親]は存在し、その万象万物の産みの親なら、人類どころか獣や鳥類まで、偏見の目をもって接したり、排除したり、抹殺することはしないだろう。

 彼はこうも記す。[鏡が明らかであれば塵も垢もつかないが、一旦煩悩の塵や垢がつけば曇ってしまう]とは、素心[この世に生まれ出た時の無邪気で天真爛漫な心は明々白々だが、一度この世の慾や思惑や、要らざる知恵がつけば、人生の一寸先も見えない盲目となる]と警告し、[心の中には定まった主{素心}がいるから、湧いてくる欲念を払って心の調和をたもとう]と欲念除去の方法を教えている。

 [合と散{集中と分散}生命の長短には基より決まりというものがあるが、それを解る者はいない。新しい生命は次々と創り出されるが、肉が死ねば再び起き上がることはない。今は霊と肉とで神奇な働きをしても、霊が去れば肉は塵芥(ちりあくた)と等しくなる。だから誰が嘆き悲しんでおれようか、この概念を散ずるには道理を悟るしかない。しからば言葉をもって不朽の名を残すもよいが、進んで模索して道理を悟るにしかず。]{王義之の曲水の宴、より抜粋転載}合と散とは集中と分散のことをいい、物質と霊が集中して人となり、分散して死を迎えるも、それが人生というものであり。我々人もこのような、宇宙大自然の道理の中で生まれ死んで永遠の生命を保つことはない。

 だから我々人はこの道理をわきまえて、この世を永遠に生きるものとしての欲や思惑や煩悩を捨て、真実の生きる道理を模索して、生、老、病、死、がもたらす真実の道理を追究することだ。と王義之は詩の中に記しているのだ。

 


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